もう一人の逸子さんへ

 もう一人の逸子さんとは、今までに何度も出会っている。最初の出会いは10代後半の多感な時期。角川文庫の現代詩人全集がいつも傍にいてくれる友であった。中でも「戦後Ⅱ」の第10巻が最も好きで、何回もの転居や阪神大震災を潜り抜け、今も旧姓の拙いサインのある垢染みた一冊が手元に残っている。その方の名前は、石川逸子さんである。当時のわたしには、南京大虐殺をテーマにした詩「黒い橋」より、母子関係の沼を描いた詩「彼ら笑う」や「見捨てられた子供たち」が強烈に心に響いた。精神的自立を目指して呻吟する時代だったからであろう。

 二回目に石川逸子さんと出会ったのは、30歳を越してからである。次男は生後一ヶ月より強いアレルギー反応を出した。今ほどアトピー性皮膚炎に関する知識もない時代であったが、母乳育児を推進する助産婦さんのアドバイスに藁をもつかむ思いで従った。母乳を与える私の食事と離乳食は、昆布だしと塩のみの味付けの茹で野菜と玄米食だった。それ以外に許されていた食べ物はりんごのみ。普通食と除去食という二種類のおかず作りや、りんごやさつまいもを使ったおやつ作り、除去食ノートに食べさせたものと食べた後の皮膚の反応を記入する作業、無農薬野菜の入手などに追われていた。20代後半までほそぼそと維持していた詩を書く時間と空間は完全に消失していたが、それを寂しいと思う間もなかったはずだ。

 育児休暇も終わり、特別支援学級担任の仕事に復帰した夏休みだった。信州へ家族で旅行に行った。その宿に置いてあった信濃毎日の文芸欄に石川逸子氏の名前を見つけた。

 8月、たしか原爆忌に寄せられた一文だったと思う。ほぼ一面を使った大枠のコラムであった。具体的な文章の中身を詳細には思い出せないが、氏のペンにこめられた気迫が伝わり落涙したのを覚えている。ペンで人の魂を動かすことの凄さを感じさせられた。

 その後特別支援学級の仕事をしながら、その時々の孤りの思いを短歌にして朝日歌壇に投稿するようになった。詩を書く時間と空間を喪失したわたしを、短詩形の器は自然に受け入れ育ててくれた。10年以上短歌の世界でお世話になった。助詞ひとつの重み、ひとつのことばにどれだけの世界や思いがこめられるのか、解ってもらおうと説明するのでなく具体に寄り添い描写できているのか、心の揺らぎが表現されているか等、数え切れない多くのことを教えていただいた。自分でつけた筆名のファーストネームは迷わず逸子だった。

 三番目に石川逸子さんと出会った時は、すでに40歳を過ぎていた。長くなるのでこの続きはまた。石川逸子様、無断でお名前を頂戴してすみません。失礼をお許しください。私も逸子として今後も生きていくことになりそうです。誰も光を当てなかった暗闇から漏れる声を、わたしたちに聴こえることばにして伝え続けてくださった灯火のような逸子さん。有難うございます。                         

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コメント: 2
  • #1

    TE-2 (火曜日, 31 1月 2012 14:32)

    逸子さんのルーツ、初めて知りました。
    素敵な名前だと思います。
    今後もご活躍ください。

  • #2

    逸子です (火曜日, 31 1月 2012 21:25)

     いつもブログを読んでくださってありがとうございます。敬愛する大先輩石川逸子さんは、今もお元気で初心を貫いておられます。寒いですが背筋伸ばしていましょうね。