南風にのって

 24年前の夏のことである。家族で奄美大島の喜界島と沖縄へ旅をした。夫の故郷が喜界島である。10歳ともうすぐ5歳になる息子たちを連れた4人の旅であった。神戸港から船で奄美まで。船中で一泊した。奄美空港から喜界空港までは小さなセスナ機で渡った。世界一短い飛行時間と言われているが、かなり激しく揺れるので、これを長く感じる人も居るかもしれない。

 喜界島に着くといきなり夫の叔父の米寿の祝いの宴が待ち受けていた。予期せぬ出来事であった。島歌が始まると、誰一人座っていない。夫はもちろん、何の予備知識もない息子たちまで、前日まで練習していたように当たり前のように踊りだした。

 島人には心の垣根がない。ちょうど「像の檻」と呼ばれているOTHレーダー基地の反対宣言が喜界町議会あげて出されていた時期である。「赤連農地を守る会」の代表 嘉津さんや、「喜界島の豊かな自然と平和を守る町民会議」の議長丸山さんを次々訪れたが、お二人とも、突然ヤマトからやって来た何者やら分からない私たちに、お忙しいなか像の檻反対運動の経緯を熱心に語ってくださった。

 

 喜界の親戚の家に何泊かした後、帰りに沖縄へ立ち寄った。太平洋戦争末期、1945年沖縄に米軍が上陸したときに多くの人々が虐殺され、米軍の手にかけられたり捕虜になるくらいならと村民が集団自決をした村・読谷村や、当時空港建設予定地になっていた石垣島の白保の珊瑚礁の海を訪れることが目的であった。白保には今は亡き友人一家も住んでいた。 

 読谷村には、随所に横断幕があり「米軍の演習を認めない村民総決起集会 日時8月3日午後6時 場所 読谷飛行場」と書かれていた。本土との温度差を痛いほど感じさせられた。

 

 この24年前の旅が、ついこの前のことのように巻き戻し再生される出会いがあった。京都の岩倉にある出会いと学びの家<論楽舎>で、2月26日(日)知花昌一さんの「三線を聴く会」があった。知花さんと言えば、沖縄国体のとき日の丸を引きおろし焼いた人だと我々の年代の者はすぐに思い浮かぶだろう。その後右翼に狙われ、ご自身が経営するスーパーを焼かれた人であることも知っていた。「今僧侶になる勉強で京都におられ、もうすぐ沖縄に帰られるから、お会いして話を聴くなら今 !」という感じの案内が論楽舎の虫賀さんより送られてきた。

 

 1時からの会に少し早く到着すると、まだ参加者は誰もいなかった。立派なカメラを三脚に据えたカメラマン風の苦みばしった男性と、ラフなGパン姿の男性が出迎えてくださった。よーく見るとそのGパンの方があの知花さんだった。「一度喜界島の田舎に帰った時に読谷に行ったことがあります。」と私が一言ご挨拶したとたん、知花さんはすっかり打ち解けてくださって三線の試し弾きをしながら、唄のウチナーグチ(方言)の解説までして唄ってくださった。どうやらリハーサルの時間にお邪魔してしまったようだ。

 2月の岩倉は格別寒く、石油ストーブが会場に3台も用意されていたのに、知花さんの伸びやかな歌声と三線の音色は南風をはらんでいて、まるであけっぴろげな島の家の縁側で聴いているようだった。そのとき唄っていたのは知花さんだが、もっともっと遥かなところから知花さんのからだを借りて声が届いたような気がした。

 そのなかに「肝が愛し」(チムガカナシ)という愛の歌があった。歌垣の唄のようで、男女の愛の言葉が交互に歌われていた。

 「私が捜していた吟遊詩人のルーツは、きっとこういうものにちがいない。南フランスの吟遊詩人トルバトゥールの歌声を聴いたとしても、こんなに感動の涙は落ちなかったはずだ。」とその時思った。 

 ことばで思いを伝え合うのはとても難しいことだが、唄はことばを超える。会が始まり、知花さんの法廷闘争を支えたハンセン病の友人の話や、ハンセン病問題に取り組む行動する仏教徒との出会い、親鸞との出会いなどが、島唄の流れの合間に語られ、質疑応答があったのだが、わたしは独りで聴かせていただいたあの島唄だけで十分今の知花さんに出会うことができたと思っている。  

 いつも良き出会いと学びをプロデュースしてくださる論楽舎の虫賀さんと、南風とともに島唄を運んできてくださった知花さんにあらためて感謝いたします。もうすぐ山科での浄土真宗大谷派の僧侶になる修行を終えて沖縄に帰られる知花さんと、今度は読谷村でお会いしたい。

「アメリカーは、一家に2丁銃を持っている。ウチナーは一家に2丁三線を持っている。」という沖縄のことばが、一番強く心に刻まれた。琉球弧の独自の文化は、丸腰の人間が持ちうる最強の武器である。今度知花さんと読谷村でお会いしたら、三線に合わせてラフな格好で和讃を唄っておられるような気がする。