命をつなぐ

 夏至の日からずっと温め、推敲し続けている詩がある。その詩は、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調第二楽章」にのせている。ピアノの3拍子の伴奏パートと、右手の4拍子のメロディーラインがついたり離れたり、揺らぎながら始まる。

「いのち」という三つの音でできたことばを、わたしの詩の宇宙に放つとどんな映像と体温を帯びて立ち現れるのか。その「いのち」に向き合う現在のわたしの足はどこに根ざすのか?その実験の舞台と触媒がラヴェルのピアノ協奏曲ト長調である。

 

 夏至の日に初めて授かった小さな命は、新米の母親の想像力をはるかに超えて生きる術を熟知していた。嬰児(みどりご)は、わたしの乳房がどこにあるかちゃんと知っていて、目をつぶったまま乳首の先とぴったり合う大きさの口を開けて、当然のように乳を飲み始めた。おそらくこれが、それまで経験したことのない私の<至福のとき>だったに違いない。

 

 しかし今は、ある福島在住の女性が言われたことばが心から離れない。「 放射能に汚染された食べ物を食べ続けなければならない人間の気持ちがわかりますか?ようやく授かった大切な我が子に汚染された母乳を与えなければならない母親の苦しみがわかりますか?」

 <至福のとき>どころか、チェルノブイリ事故以降、涙を流して授乳するあるいは授乳を断念した母親たちがいる。

 

  7月16日、東京代々木公園で行われた「さよなら原発10万人集会」に北海道から沖縄まで、日本各地から17万の人々が集まって来た。<こうあらねばならない>という理屈で始まった運動ではなく、<今まで生きてきた人としての誇りや守るべき命>などの存在に根ざし「第二のフクシマを絶対に起こしてはならない」という一つの祈りにも似た思いに貫かれている運動である。そこに参加した人々は、今までの市民運動にない少々のことでは衰退させられない手ごたえを口々に云う。

 

 人や生き物が安心して子に乳を飲ませることができる未来を用意することは、今命を頂いてこの世に縁を結んだものの最低限のしごとであろう。