ときを経て

 母亡き後、我が家に実家の仏壇が来ることになった。ある日仏壇の引き出しを片付けていると、何か書かれている紙が出てきた。おそるおそるそれを開くと、

「昭和21年5月2日 倭文子死す

 今一度笑めよ泣けよとゆすぶりぬ嵐と共に逝きしむくろを」と書かれていた。父の絶唱である。

 戸籍上、私は三女である。食糧の乏しい終戦の年に生まれた長女倭文子(しずこ)は、生後5ヶ月半で自家中毒で亡くなっている。

 二度にわたって身内の話で申し訳ないが、年の暮れなので、年末心の大掃除のような気持ちでいる。戦時中、身重の母は大阪大空襲の焼夷弾で両肩を射抜かれた実母の看病をしていた。重い配給物資を運ぶのも母の仕事であった。そんな生活のなか、初めての子を流産している。もし当時平和で食糧事情良く、医療ももっと進んでいたら、みんな無事生まれ育ち「若草物語」のように賑やかな四姉妹だったかもしれない。

 父が亡くなる直前、二本の指を私たちに立ててみせた。父の死後、みんなでその二本指の意味を語り合った。いつも軽妙な話で場を和ませる父の一番下の弟、忠佐叔父が、「まさかVサインでもないやろしなあ~。」と言った。その時28歳だった私も、父が二本指を立てて私たちに何を伝えたかったのか分からなかった。

 今、姉と二人遺され、父の最期の齢となり振り返ると、あの時の父の願いがいつの間にか自然に私のなかに入って私のものになっていた。父の最期のことばは、とてもシンプルなメッセージであった。「姉妹二人、仲よく力を合わせてお母さんを助けて生きていってくれ。」ということだったのだ。 寡黙だった父は、今喜んでくれているだろうか。満足しているとき黙って大きく頷 いていた父の姿を久しぶりに思い出した。