2013年の船出に

 柿本人麻呂の歌に

明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどかにあらまし(巻第二 一九七)

という歌がある。

「明日香川に塞をわたしてとめたら、流れる水も皇女の遠ざかることも、ゆるやかになるにちがいないのに(中西進訳)」という歌である。

 1300年くらい前に宮廷詩人だった人は、「しがらみ」ということばを真っ直ぐに去り行く人を引き止める心の拠り所として使っている。 

 今は「しがらみ」ということばは「柵」と書かれ、「浮世のしがらみ」と言われ、「まといつくもの」と、かなり否定的に使われている。

 

 二人の息子たちが私の元を巣立って行こうとしていたとき、彼らが拍子抜けするほど、私は息子たちの巣立ちの本能に逆らわなかった。長男は15歳で音楽の志を立てて我が家を出た。次男はたしか20歳のとき。「しがらみになるまい。引き止めるまい。」という気持ちが強く、「本能上等!」と思っていた。人生のほんの短い一節を大切な人と濃密なときを過ごすことができただけで有難いことであった。男の子になった経験がないので、たとえ親子であっても男の子は異邦人のように思えることがしばしばあった。誰かの柵になるくらいならたとえ冷たい人だと思われても独りになる方を選ぶ。それぞれが螺旋を描いて成長していく過程のどこかで、よりいい感じで再会できることを信じている。

 

 長男が遠くの城下町で下宿した後、しばらく一人になるとテレマンのヴィオラ協奏曲の二楽章を繰り返し聴いていた。それは長男の音楽高校受験の課題曲で、ずっと彼が弾いていたという縁のある曲だが、その深い旋律に船が絆(ほだし)の縄を解いて夜の海を出て行くイメージを秘かに抱いていた。

 

 2013年の船出のとき。被災瓦礫の広域処理で空気が汚染され、息をするのも辛い一年となるかもしれないが、とにかく生きていかなければならない。今覚悟し、分かっているのはそれだけだ。そのような厳しい状況だからこそ、本物の出会いや詩や未来を生む力が思いがけず吹き出るかもしれない。

 今年も吟遊詩人社をよろしくお願い致します。