1・17~3・11 祈りはどこに通じる?

 詩の朗読の機会の多い、有難くも慌しい4月が過ぎた。今回は詩と音楽のコラボレーションに、一人芝居的要素を少し取り入れたので、いつもよりハードルが高く練習量も多かった。詩のことばと音楽との間合いと動作、全て頭とからだに入っていなければならなかった。記憶力の退化現象に抗う日々が続いた。この間、筆不精等の数々の失礼を重ねてしまっていて申し訳ない思いで一杯である。

 今年の1・17は、被災地NGO共同センターで、ドキュメント映画「禁じられた大地フクシマ」の試写会に参加した。上映中の暗闇のなかで、どこかの線がプツリと切れたように思う。とめどなく涙が流れて止まらなかった。この映画の特別どこかの場面に反応したということではなく、18年間封印してきた1・17以降の想いが、フクシマの映画を観ることが引き金になり、オーバーフロウしたのではないだろうか。

 この2年間、フクシマを詩に詠むことはなかった。できなかった。しかしこのことをきっかけに、1・17の被災者として3・11の犠牲者への祈りの声を伝えることを自分に許し課した。そうしてできた<3・11神戸からの祈り>の集いで初めて朗読した「祈り」という詩を、神戸学生青年センターで行われた「食品公害を追放し、安全な食べ物を求める会」の総会等でも朗読させて頂いた。同じ1・17の被災者である参加者の皆さんの真剣な眼差しに支えられて朗読することができ、無言のエールを頂いたように感じた。

 

 からだの表現も交えた朗読の話を同じ年の親友にすると、「砂田明さんのことを思い出すわね。」という思いがけないことばが返ってきた。

 もう30年近く前のことだっただろうか。今は亡き砂田さんの姿がにわかに蘇った。小さい赤いテープデッキを持ってどこにでも出かけて行かれ、自作の《水俣》の朗読劇を演じておられた砂田さんの小柄なお姿。

 

・「水俣の海を見に来よ」尾のごとき長きマフラー翻し去る

 

 短歌を始めたばかりの私の拙い歌もついでに思い出してしまった。

 

 歳月はあれからだいぶ過ぎたが、日本の政府は、水俣の被害者を見捨てたのと同じように放射線量の高いフクシマに、子どもたちを人々を置き去りにし放置している。

 早く憲法九条を改悪し、戦争ができる国にしたくてしかたがない首相Aが、迷彩服を着て嬉しそうな笑顔で戦車から手を振る写真を新聞で見たときは、ぞっとして目を疑った。

 原発事故の収束もしていないのに何の反省もなく外国に原発の売り込みのビジネスに出かけ、日本の原子力技術の水準の高さを誇っている首相Aのことばをニュースで聞いたときは、耳を疑った。

 

 明日は憲法記念日である。目や耳を疑っている場合ではない大変な時に居ることを、改めて一人ひとりが自覚しなければならない。