気づく

 突然理不尽に奪われたり脅かされたりして、初めてそれがどれだけ自分の生活にとって大切なものであったか気づかされることが多い一年であった。

 

 今年の2月から9月までの7ヶ月あまり、大阪市の橋本市長が多額の輸送費をかけて大阪のごみ焼却場で震災瓦礫の焼却を強行した。<痛みわけ>というよさそうなことばの陰に残念ながら復興予算の横取りや利権がうごめいていたことは、すでに衆知の事実である。

 

 焼却場から湾をまたいで直線コースの我が家では、7ヶ月間洗濯物も布団も一切外には干さなかった。そしてベランダで草花の世話もこまめにできない生活が続いた。

 マンション暮らしなので本当の土に根ざした暮らしは最初からできていなかったかもしれないが、ベランダでゆっくり時間をかけて水遣りを楽しむ元の心の状態に戻るのに焼却終了後もかなりの時間を要した。自然を全身全霊で味わう日常を奪われると、自然を味わう感覚器官も、使わないで放置された電気コードのように劣化していくのだろうか。怖ろしいことだ。

 今日はポインセチアのビロードのような朱色の葉に水滴が球形に留まり、そこに太陽が射して輝いていることに見とれた。干した布団に鼻を埋め、甘くぬくとい陽の匂いに涙が滲んだ。それらの自然と触れ合うささやかな一つひとつの場面が、わたしの生活を今までどれだけ豊かに彩ってくれていたことだろう。散策をしたり旅をすることも自然と出会う素敵な方法だと思うが、忙しい日々を送る我々にとって、日常生活での一番身近な自然との友好関係がどれだけ大切なことであったか、今回改めて気づかされた。