母の手作りアイスクリーム

 父が出勤時、母に「おやつにあれを作ってやったらいい。」と言い残して出て行ったことを何故かずっと覚えていた。引越し前の記憶なので、4歳までのことである。

 父の故郷の福井県からは、毎年米やサツマイモがどっさり送られて来た。母はそのサツマイモを使って私たちに色々なおやつを作ってくれた。私は「あれってなあに?」とその場で聞いたにちがいない。母は、シンプルなふかし芋や黒胡麻を振った大学芋、芋けんぴだけはでなく、小豆のかわりに芋を餡にして太鼓饅頭を作ってくれていた。父は母の作る食べ物について一切干渉したり文句を云ったりしなかったはずだ。なのにどうしておやつの内容にまで言及して仕事に出かけて行ったのか、大人になってからもそのシーンを思い出すたびに何故か気になっていた。あれから60年経た今ごろになって、ようやくそのことについて納得できる答えが見つかった。きっと父はどこかで鉄の太鼓饅頭の鋳型を手に入れて来たに違いない。子どもたちの喜ぶ姿を想像しながら。あの父のことばは、きっとその直後のことなのだろう。 

 母はおやつ作りのチャレンジャーだった。小学生だった息子たちは、ポテトチップを手早く作った母のことを、手品師のようだと賞賛していた。私と姉は、アルミでできた製氷皿に母が作ってくれたアイスクリームの味が今も忘れられないでいる。

 電気冷蔵庫がようやく庶民にも手に入るようになった頃、母は自分の伯母に教えてもらったレシピに添って、夏休みにはアイスクリームを作ってくれた。母だけでなく、私たち姉妹もその母の伯母のことをオバチャマと呼んでいた。彼女は戦後農学博士の夫が農作物の研究のため渡米した際同行し、何年もテキサスで生活していたそうだ。オバチャマ直伝のアイスクリームのレシピを何も受け継いでいないことが悔やまれる。

 だが、「吾が子を再び戦争で飢えさせることなく育てたい。子どもたちに手作りのおやつを食べさせられるような平和な暮らしを大事にしたい。」という戦争体験者の両親の願いを、母の手作りおやつを通して受け継いでいたのだ。今こそそれを大切に握りしめなければならないと思う。