誰もが平等にもっているもの

 今年も後一日で終ろうとしているが、今わたしはとても単純で大切なことを噛みしめている。性別、年齢、職業、家族、出身地、趣味、富む人貧しい人・・・。人は一人ひとり固有の多様なプロフィールをもっているが、誰もが平等にもっているものがある。その人の幼児期である。それを仔細に記憶している人、ほとんど覚えていない人の差はあったとしても、幼児期をもたない大人は存在しない。

 何故そんなことを、今この暮の忙しいときにここに書いているのかといえば、今年の終わりに気づいたことなのだ。どんな人も、幼時期を経て大人になっているという点で平等であることを。

 

 私の最も遠い記憶の欠片は、何故か4歳のころのものだと推察される。私が4歳の春、姉は小学校に入学している。父は近くの高等学校の国語の教師をしていて終日不在であった。母と私は、木造の平屋建ての家で半日を二人だけで過ごしていた。私の仕事の全ては「独り遊び」であった。絵本を読み、ラジオの『ABCの幼稚園』という番組に耳を傾けながら一緒に歌い、のりと鋏で工作をする。庭に出て庭の草花の香をかぐ・・・。その頃から独り遊びが好きであった。当時は洗濯機も炊飯器も掃除機もなく、薪を割って風呂を湧かしていたので、母は家事で多忙であり、4歳児の傍にずっと寄り添うことはできなかった。それは私にとってとても幸いなことであったと思う。お陰で独りで楽しみを見つけ、自分なりの時をつくることができたからだ。今自然や世界の動きを肌で感じながら詩を書いていることと、この4歳児のときが一つの線上でつながっている。

 季節の風を思う存分吸い込み、折々の草花の匂いを嗅いで遊んでいた幼児期が、自分にとってどれだけ大切なものであったか、改めて今振り返り感じている。だからこそ外で思う存分遊ぶこと、落ち葉一枚拾うことを幼い人たちに禁じなければならない国土を、これ以上増やしてはならないと心の底から思う。