父の命日

 今日は父の月命日です。父は、北陸の農家の次男として生まれました。勉強が好きだった父は、大阪の母方の叔母の養子になり、天王寺の師範学校に入学しました。商売をしていた父の義母は、「電気代が勿体無い!」と、夜遅くまで父が勉強をすることを嫌い、父は押入れで懐中電灯の明かりで本を読んだそうです。これは母から聞いた話だったと思います。父は自分のことをほとんど話さないまま今の私より若い定年直後に逝ってしまいました。電気代のことで夜勉強することを親に嫌がられる世界があるというのは、世間のことを何も知らない小学生には、衝撃的であったように覚えています。

 

 夏休みに父の田舎に行くとき、北陸線の長いトンネルを抜けて先に金沢に立ち寄ってから福井の家に行き、そこでのんびりと何泊かしていました。金沢が大阪での商売をたたんだ父の義母が住んでいた所、福井が父の生家がある所です。父は実母だけを「おっかあ」と呼んでいました。    

 

 戦時中、父は学童疎開に子どもたちを連れて行く担当でした。母と結婚したばかりの父は、母を大阪に置いて疎開することはどうしても考えられず、「妻を疎開先に連れて行かせてください。叶わなければ、職を退きます。」と校長にかけ合い、「寮母という名目で働いてくれるなら連れて行って良い。」という校長の許可を得たそうです。父と母と当時4年生だった学童たちは、兵庫県の能勢の妙見山にある山寺に疎開しました。

 もしそのとき母を母の実家に預けて父だけが能勢での学童疎開に付き添っていたなら、今ごろ私はこの世に存在していなかったかもしれません。母の実家があった町は、大阪大空襲のとき、火の海になっています。まだ小学生だった母の妹と弟を庇った祖母の背中から肩に焼夷弾が貫通し、三人とも辛うじて命は助かりました。                                      

 新妻を大阪に置いて学童疎開の引率をすることを拒んだ父のお陰で、私は無事戦後に生まれることが出来ました。父の母への愛に感謝し、今日は長男からの岡山土産の饅頭を二人の仏壇に供えました。

 残念ながら昔話ではないのです。子や孫達の命を戦争で喪わないために、何から始めないといけないのか。一人ひとりが真剣に考えなければならない時にきているように思います。小さな一人の決断でも、その後の人生を大きく左右することがあると、父の職を賭けた決意に教えられました。