ことばの前で立ち止まる

 ずっとなんだか臭いと感じていたことばがある。「痛み分け」である。被災地の瓦礫処理に関して主に今使われている。そこで臭い匂いがどこから来るのか考えてみた。そのことばだけを聞くと、良心的な人ほど胸が傷むはずだ。「《NO!》 と言うと利己的ではないか。正直いろいろ心配なことはあるけれど、今は《YES》と言うべきではないだろうか。みんなで東北の痛みを分け合わないといけないときなのだから。」という思考回路をそのことばは自動的に生んでいるように思う。だがその切ないことばに乗る前にいったん立ち止まりたい。まずそのことばが誰によってどのように使われているかが問題なのだ。「安全でクリーンな原発は、核の平和利用に転換できる!」ということばで積極的に原発建設を推進してきた中曽根首相以降の政府とそれで儲けてきた電力企業が、原発事故後も今までついてきた嘘を素直に認め悔い改めるどころか、再稼動させようとしているし、原発の輸出までしようとしている。また原発事故の被害を地元で償うことも不十分なまま「痛み分け」と称して今度は日本中に瓦礫をばら撒こうとしている。例えばこれが公害問題だとする。地元住民への謝罪や補償も十分していない政府や公害垂れ流し企業が「痛み分け」と称して、被害を受けた地元で処理しきれない公害関連廃棄物を日本全土にばら撒けるだろうか?!

 瓦礫の輸送にかけるお金(1000億近くかかるそうである。)と時間があるなら、(市議会で瓦礫受け入れを決議した北九州市まで輸送するのはどれだけのエネルギーがいるのだろう。)地元で、高性能のダイオキシンが出ない安全なフィルターのある焼却炉を造って動かせば、現地の雇用促進と復興が同時にできるはずである。東北でも、設備の不十分な焼却炉で処理し、排気から大量のセシウムが出ているところもあるらしい。事実を知らされていない貧困な情報環境下、「痛み分け」という情緒に訴えることばによって、またもや取り返しのつかない失敗に巻き込まれかけていないだろうか。

 日本人は、五音七音のことばに弱い。「欲しがりません・勝つまでは」「鬼畜米英」「御国のために」・・・・。わたしがまだ生まれていない第二次世界大戦中に日本人が戦争に命を差し出す心の支えになったことばが、なぜか教えられたはずのない戦後生まれのわたしの口からスラスラ自動的に出てくる。

 日本人の琴線に触れて揺さぶる「痛みわけ」ということばの前で、一旦停止が必要なときだ。「原子力の平和利用」という臭いことばの嘘に真剣に異議申し立てできなかった反省もこめて、臭い匂いがしたらそこで立ち止まり、臭い匂いを元から断つ方向を向きたい。政府と東京電力は、東北の瓦礫を1000億かけて日本全土にばらまく前に、東北の痛みを真摯に受け止め償うことが先である。