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大会朗読詩「ヴォカリーズを聴きながら」雑記

                  望月逸子

 

*『ヴォカリーズ』との出会い

 自分を様々なかたちで支えていた身近な大切な人を喪ったとき、当然のことながら饒舌にはなれない。それでも例えば仏教徒であれば、四十九日や一周忌までの過程で哀しみが少しずつ癒され、故人を偲ぶことばや挽歌が生まれることもある。

 だが今回の東日本大震災と福島原発事故は、天災と不慮の事故なので、誰も心の準備ができていなかった。直接の被害は受けていない私までも、完全に心が凍結してしまっていた。普段は詩を生む触媒になる音楽が、歩いていたり料理をしたりする時もからだに流れていたのだが、詩も音楽もピタリと息の音を止めてしまっていた。

 チェルノブイリ原発事故のとき、被爆して甲状腺癌になったベラルーシの子どもたちの話に胸を痛めたが、それを自分のこととして捉え、足元の原発をなくす運動に取り組むところまで心の腕が伸びてこなかった。「まさか日本で同じようなことは起こらないだろう」という無知ゆえの何の根拠もない安心感を密かに抱いて今まできてしまったのだ。関東の人が、東北の人たちの生命や生活を危険に晒しながら電気の供給を受けていたのと同じように、関西に住む私は、福井の若狭湾岸の人たちを原発が林立する危険な状況に置いていることに無自覚なままそこから半分以上の電気をもらって生活していた。その事実が分かり、突然足元をすくわれたような衝撃を受けた。

 そういう状況が4か月近く続いていたとき、倉敷アカデミーアンサンブル東日本震災復興支援コンサートが倉敷で行われた。そこにはロシア人チェリストでショスタコービッチ室内楽コンクールにおいて優勝したドミトリー・フェイギンという国際級の若いチェリストが出演していた。多くの外国人アーティストが西日本の公演さえも原発事故後はキャンセルすることが相次ぐなか、フェイギン氏は出演料の出ないチャリティーコンサートに進んで参加したという。そして音楽監督江島幹雄氏の発案をフェイギン氏が受けてプログラムに組み込まれた曲がラフマニノフの『ヴォカリーズ』だった。『ヴォカリーズ』とは歌詞のない歌曲で、ずっと「あああー」と母音のみで歌われる。ソプラノ歌手が歌うことが多いそうである。

 今回はその歌の部分をチェロが謳いあげていた。チェロという弦楽器は、ヴァイオリンやヴィオラと違い直接床に触れているので、その振動が観客席の私の下腹に響いてきた。そしてこの曲がこの時期にプログラムに加えられた意味が伝わったように思えた。これはまさしく深い哀しみと愛と祈りの歌だったのである。歌詞のない歌曲は、ことばを喪っていたわたしの心にひたひたと入ってきた。原発事故から4か月経ち、ようやくからだの底を流れる音楽に出逢えた。

 今回の大会で朗読させて頂いた「ヴォカリーズを聴きながら」という詩は、それ以降繰り返し『ヴォカリーズ』を聴くことで生まれた作品である。三枚のCDを聴き比べたが、ミッシャ・マイスキーの奏でるチェロの調べが最も心の深いところに響いた。他の奏者と比べ一分近く多くたっぷりと演奏していて、一音ずつ心をこめて紡ぎ出されている。マイスキーはユダヤ人であり、姉がイスラエルに亡命したことでソヴィエト当局から目をつけられていた。彼が姉に続いて海外に亡命することを防ぐためにKGBはマイスキーに関する無実の罪をでっち上げた。そして彼は、強制収容所で弓をもつ手にシャベルを持たされ、毎日十トンのセメントをすくう労働を強いられていた。多くの人の支えで幸いマイスキーは弓を持つ手と生きる希望を守り抜くことができ、今我々も彼の音楽に触れることができる。多くの被災された人々が、「以前できていた普通の暮らしがどれだけ有難い幸せなことだったか。」と述懐しているが、マイスキーもチェロを弾く日常が自分にとってどれだけ大切なことだったかを実感している。

「私は強制収容所にいた時代に、ひとつのことを学んだ。感謝の気持ちである。生きて好きな音楽を演奏できることへの感謝。音楽に携わることがどんなに幸せなことか。この感謝の念を牢獄の中で学んだ。」ある日収容所の鉄格子の狭い隙間から、木ノ葉が偶然一枚舞い込んで来た。「私はその木の葉に触れ、自然の営みを感じた。久しぶりに自然の息吹を感じ取り、えもいわれぬ幸せな気持ちを抱いた。私はこのときばかりは時間を忘れ、いつまでも木の葉を抱きしめていた。・・・やせてごつごつした胸に木の葉を押し付けると、生きているという実感が湧いた。・・・もしかしたら、生きてここを出られるかもしれない。また、チェロに触ることができるかもしれない。音楽を奏でることができるに違いない。ああ、神様ありがとう。感謝します。もしも再びチェロが演奏できるようになったら、私はそれにすべてを賭けます。自分の人生をすべて捧げます。」

 わたしにとってラフマニノフの『ヴォカリーズ』という曲が、生命の息吹を感じさせ、詩を書く希望を与えてくれた一枚の木の葉だった。

 

*『ヴォカリーズ』の背景  

 

 ラフマニノフがどのようにしてこの『ヴォカリーズ』を作曲したのか。この曲の魅力を感じれば感じるほど知りたいと思った。この曲はマリエッタ・シャギニャンという女流詩人との交流から生まれたものである。1912年の2月に彼女は「Re」という署名をして初めてのファンレターをラフマニノフに書いた。「Re」はフランス語で、ラフマニノフが好んだ「ニ調」の符号にあたる。アルメニア人の家系に生まれたシャギニァンは、交際が始まったときには22歳だったが、すでに詩人として出発しており、音楽についての文章も発表していた。手紙を通じてラフマニノフは、かなり正直にコンサートでの失敗や心身の疲れについてシャギニャンに訴えている。ラフマニノフは心の振幅の激しい人であったが、落ち込んだときも何故かシャギニャンには素顔を見せることができたようだ。自分を理解することができる相棒であると信じていたのだ。そして歌曲にふさわしい詩を紹介してほしいと彼女に依頼したのである。2人が出会った1912年、シャギニャンはプーシキンなどロシアの詩人の詩を次々にラフマニノフに紹介した。そうしてできたのが『歌曲集』(作品三十四)である。第一曲『ミューズ』をラフマニノフはシャギニャンに献呈している。そしてこの歌曲集の最後を飾るのが、かの『ヴォカリーズ』である。二人の交際は、1917年ロシア革命後ラフマニノフが家族と共にロシアから亡命する直前まで続いた。第二次世界大戦後の1957年、シャギニャンは『ラフマニノフの想い出』を発表している。妻と子のいるラフマニノフとシャギニャンとの関係は、「心の友」で有り続けたという。前掲書によると「二人の間には純粋な友情だけがあったのであり、とくにこのことは断っておきたい。」ということである。文通だけでなく並んで座り語り合い、時にラフマニノフは彼女のためにピアノ演奏もしている。シャギニャンはラフマニノフがイギリスから『リア王』の音楽を依頼されると、そのロシア語訳を送るなど文学的精神的援助を惜しまなかった。『ヴォカリーズ』が生まれた背景に、才能ある二人のジャンルを異にする芸術家の出会いがあり、二人を繋ぎ創作のモチベーションとなった愛が有る時存在し、静謐な祈りに満ちた曲を生む土壌となっていたことが、曲を通じて確かに伝わってくる。

 

*喪失と回復

 

 ラフマニノフの波乱に富んだ生涯については、大会で述べさせていただいたが、ここではもう一歩進めてその激動の人生が、彼の音楽にどのような影響をもたらしたかという考察をしてみたい。

 子どもの時代に彼が受けた一番大きなダメージは、父親の破産と両親の不和、別居、家族離散であろう。モルダヴィアの貴族の末裔で、没落していたとはいえ、幼年期は豊かな自然に恵まれた環境と音楽好きの家庭で育ち、4歳ですでにピアノの才能を発揮していた。しかし彼が9歳のとき家庭が崩壊し、《帰るべき居場所がない》という不安定な状況が発生していた。12歳から従兄弟のピアニスト、ジローティーの勧めでズヴェーレフの弟子として寄宿するが、ここはラフマニノフにとってあくまでも《仮の宿》でしかなかった。ズヴェーレフは自分に忠実であることを条件とした養育と指導をしたのであって、無条件でラフマニノフを愛し、才能を認めて受け入れていたわけではなかった。ラフマニノフは、ズヴェーレフの元を4年で去ることになる。

 再び住む場所を失ったラフマニノフは、伯母の嫁ぎ先のサーチン家に身を寄せる。《第二の仮の宿》である。ここで未来の妻ナターシャと出会う。18歳で彼は、モスクワ音楽院をピアノ科作曲科とも金賞を獲得して卒業することができた。卒業制作のオペラ『アレコ』は、チャイコフスキーの推薦によりボリショイ劇場で初演され、ラフマニノフの音楽家人生の始まりは順風満帆にみえた。しかしおそらくラフマニノフが偉大な父親のように慕い敬愛していたチャイコフスキーは、僅かその2年後に亡くなっている。自分の音楽を理解してくれる尊敬する先達、《ようやく出逢えた心の拠り所》を喪ったラフマニノフの悲しみはいかばかりかと思う。

 その悲しみを乗り越えるために作曲した交響曲第一番は酷評されてラフマニノフが鬱状態になったことはすでにお伝えしたが、ここで挫けて作曲ができなくなるラフマニノフの気持ちに私は寄り添えなかった。しかし今改めて、《帰るべき居場所がない》→《仮の宿》→《第二の仮の宿》→《ようやく出逢えた心の拠り所》というキーワードを辿ってみると、少しラフマニノフに近づけた気がする。陽が射す場所で松明の火が消えるのと、闇の中の一灯が消えるのとは意味が違う。

 その後孤独な闇のなかからようやく立ち上がったラフマニノフが創った世界、ピアノ協奏曲第二番の透明で繊細な輝きが、今聴くとなおさら美しく愛おしく感じられる。ラフマニノフの心の底にはいつもなにかしら翳りのある旋律が流れていたように思う。そして《帰るべき居場所がない》というキーワードは、彼の亡命の発端となったロシア革命によって比喩の入る余地のない決定的な現実となる。

 20世紀初頭から10月革命までの17年間が、おそらく作曲家としてのラフマニノフが一番充実していた時代であったといえるだろう。1902年にラフマニノフは従姉妹のナターリヤ・サーチナと結婚し、自ら《帰るべき場所》を創った。

 それから10年経て『ヴォカリーズ』は、誕生している。ナターリヤとの家庭が《帰るべき場所》であったのなら、『ヴォカリーズ』誕生を助けた詩人シャギニャンは、ラフマニノフが献呈した歌曲の題名通り、音楽の啓示を与える《ミューズ》だったのだろう。

 

*終わりに

 

『ヴォカリーズ』をマイスキーのCDで毎日飽きることなく聴きながら、詩のことばを刻んできた。ヴォカリーズを聴きながら詩が漂着したのは、はからずも荒涼とした三陸海岸の風景であった。家族や愛する人、住まい、財産、仕事、生きがいを生む土壌・・・全てを喪ったあとに、まだ「希望のようなもの」が残りうるならそれは何なのか。答えは一人ひとり違うはずである。それを見つけて表現することも、生きる者が未来に遺す仕事のひとつではないかと今は思う。

 『縄葛』という『居場所』で自由に表現させて頂ける幸に感謝しています。

 

参考文献

・「魂のチェリスト~ミッシャ・マイスキーわが真実」

伊熊よし子著 小学館

・「モスクワの憂鬱~スクリャーピンとラフマニノフ」

藤野幸雄著 彩流社

・「ロシア音楽事典」日本ロシア音楽家協会編

河合楽器制作所出版部

(『縄葛』2011年冬号に掲載された文章に加筆したもの。)

 

 

 

 

ヴォカリーズを聴きながら

   

ラフマニノフ  ヴォカリーズ 嬰ハ短調にのせて

                         望月 逸子

 

あれはたしか朝七時ごろの風景

デルフトで一人仰いだ空を覆っていた

雲の 濃淡

 

《デルフトの眺望》が描かれた季節はいつだろう

謎解きブランコは揺れぬまま

夏休みの宿題の山に

埋もれている

 

肉声も肉体も介さない

「魂の隣人」というpositionを 

この星に棲む人に

理解してもらうのは 

このうえなく 難しいことだ

何度も生まれ直す魂が

誕生の喜びに満ちた挨拶を交わしあう

この太陽系第三惑星の片隅に  

かつて 普通に存在したはずの 習慣

 

詩は善悪の彼岸へ

綿雲と雨雲の間にのぞく ラピスラズリの天空に立ち昇って行く

 

ヴォカリーズを聴きながら

満ち潮の入江に佇み

あなたが遺したことばを抱くと

ことばは宇宙を孕む

雌鶏のように眼を閉じて

閑かに抱卵しよう

すっかり軌道をはずれて見えなくなった金星も

九月には

懐かしい夕景に戻ってくる

 

海と陸から交互に風が通り抜けていく道が

希望のように 残されている 

 

 

(『縄葛』2011年秋号に掲載された作品)