♪ 心がフリーズしたときに ♪

 物心ついてから、音楽の流れない暮らしを今まで二度体験した。三度ないことを心から願う。一度目は、阪神淡路大震災の時。二度目は福島原発事故の後である。

 阪神淡路大震災直後、西宮市のわたしたちの地域は、ガス水道が復旧するまでに3ヶ月かかった。調理・洗濯・入浴などの基本的な生活がままならず、比較的被害が少なかった近隣の町の銭湯や、コインランドリーを渡り歩いていた。

 今でこそ切ない笑い話であるが、熱帯魚の水槽の温度を上げるニクロム線の装置を貸してくれた友人がいた。大切に汲みおきしていたバケツ数杯分の水を浴槽に注ぎ、何時間もかけてそのニクロム線で水温を上げた。熱帯魚の何倍もあるからだを、バスタブの底に縮めて浸した。冬場のぬるま湯でも、独りで浸かることができて有難かったはずだ。

 トイレに流す水は、家の前の浜辺で海から頂戴した。小学校入学前、寝る前の布団の中で父に何度も語ってもらった「安寿と厨子王」の話が、突然脳裏に浮かんだ。人買いにさらわれて、あの人たちがさせられていた仕事が潮汲みだったなあと思い出しながら、海水を汲み上げた・・。亡くなった父の記憶に結び付けて、非日常を楽しむ力をもらった。

 

 ようやくガスと水道が復旧した17年前の4月、ザルツブルクから来た管弦楽団の演奏会に大阪まで足を運ぶゆとりができた。

 はじめに指揮者が、「震災で亡くなられた魂に捧げます。」と聴衆に向かってよく通る声を放った。その後バッハの「G線上のアリア」が静かに流れだした。最初の一音が響いたとたん、涙が溢れて止まなかった。1月17日の地震が起きて以来、涙を流したことはそれまで一度もなかった。コルクの栓がポーンと飛んだように、押さえていたいろいろな感情が吹き出てきた。

 

 福島原発事故の時は、物理的にはいくらでも音楽を聴くことは可能であった。しかし音楽を受けつけない心の状態が3ヶ月以上続いた。

 フクシマは、決して<東日本の話>ではなかった 。「核の平和利用」という言葉を疑い覆そうとする力のなかった私。若狭に並ぶ原発から電力の半分以上をもらい、1・17直後の暮らしぶりをすっかり忘れて便利を謳歌して過ごしてきた私。それらの根底が文字通り揺るがされたのだ。

 

 2011年7月に倉敷で東日本大震災チァリティーコンサートがあった。そこでロシア人チェリスト、エフゲニー・フェイギンが奏でるラフマニノフの「ヴォカリーズ」のチェロ演奏を聴いたとき、福島原発事故後初めて音楽が心に届いた。父を喪った没落貴族の息子ラフマニノフが、ロシア革命後アメリカに亡命する前に作った曲である。ラフマニノフの「ヴォカリーズ」は、寄る辺のない魂のアリアのように響いた。これも不思議なことに最初の一音を聴いたときから身震いし、からだに浸透した曲である。そのときから「住む家と町と風景と、そこでの暮らしと愛する人と仕事を喪い、それでもまだ<希望>のようなものが残っているとしたら、それを何と呼べばいいのだろう。」という問いを抱いている。

 

 今吟遊詩人社のオフィスに流れる音楽は、多彩ではない。グレン・グールドというカナダ人ピアニストが奏でるバッハの「ゴールドベルク変奏曲」と、シェーン・ベルクのピアノ曲。どちらも感情移入しないで聞き流すことができる曲である。

 美しい旋律や予定調和の起承転結のある楽章を受けつけなくなった決してハッピーとは云えない時代、あまり好きではなかったはずのシェーンベルクと出会ってしまった詳しい話はまたこの次。

 

  

 

 

 

 

 

  

コメントをお書きください

コメント: 1
  • #1

    yasuhiro (日曜日, 03 6月 2012 22:54)

    17年前の寒い季節の中に、確かに<音楽>はなかったですね。武庫川を隔てて、半壊の私たちは、自転車で朝に焼きあがったパンを運んだせっせと運んだ日々が昨日のようですね。<言葉>は今より豊かだったかもしれません。すくなくとも、<言葉>から感じるものは・・・「ダンボールを敷くと暖かくなるよ」と言った体育館で聞いた卒業生の<言葉>に思わず涙した情けなかった非力な私でした。中島みゆきの「時代」は、今でもダメです・・・