返礼 

 人との出会いで一番運命的なものを感じたのは、初めての出産のときかもしれない。妊娠

がわかると同時に右の卵巣の脳腫も発見され、安定期の妊娠4ヶ月を待って手術をすることが決まった。

 わたしの両親をはじめとする家族は、とても心配したと思う。母体の安全が第一、手術は胎児にもダメージを与えるのでこの際子どもをあきらめては・・。という意見もあった。しかしおなかの子の生命力はたいしたもので、少しずつ自己主張し始めた。少食だったわたしが、夜中にも空腹をおぼえるようになった。わたしのからだのなかにもう一つの命が育ちはじめ、わたしに精一杯呼びかけていることが分かった。

 そんなある日、夫は同じ神戸方面で仕事をして帰る夫の父親と偶然電車のなかで出会ったそうだ。おそらくわたしの手術のことが一番の話題だったのだろう。そのときの義父のことばを思い出すと今も目頭が熱くなる。「どんな子が生まれても、二人で大切に育ててよ!」これが新しい命に対する、夫の父からもらった最初のエールだった。お陰で母親が独り子どもの命を守るという悲壮感漂う仮想の設定は完全消滅した。

 胎児への影響を考え全身麻酔は避け、局部麻酔で手術は行われた。腹部が切られる瞬間の感覚を今も思い出す。それから七転八倒のわたしにとってはとても長い時間が始まった。あれだけ痛い思いをしたのは最初で最後の体験であろう。術後、切迫早産等の危機を乗り越えながら胎児は育ち、4キロ近い男の子がわたしたちのところに来てくれた。

 

 話が少し飛躍するが、今血液検査で簡単に染色体異常の有無が判るところまで医療技術は「進んで」いるという報道が、最近の新聞報道であった。しかしわたしは、障がいの有無の検査をして子どもを生むか生まないかを選択するというのは、命に対する不遜な行為だと思う。工場の生産ラインではない。人間の誕生の話である。そこに優生思想が割り込んでくることはどうしても納得いかない。羊水検査には300分の1の確率でリスクもあり、毎年50人の流産が推定されている。「どんな子が生まれても、二人で大切に育ててよ!」という一言で、この問題をすっきりさせてくれた亡くなった夫の父は、哲学書や宗教書を読んで彼独自の命に向き合う姿勢を確立したわけではない。奄美大島の離島喜界島から15歳でパスポートを持って本土に出て来て働き、同じ島出身の女性と結婚して5人の子どもを育て、義父を頼って阪神間に出て来た姪たちの面倒までみてきた義父。あれは、彼のからだのなかから自然に滲み出た命への敬愛に満ちたことばだったのだろう。しんどいことは決して不幸なことではない。しんどいことの中から人はたくさんの幸せや充足感を得ることができることを義父は知っていた。 

 

 今は息子たちの世代が新しい命と向き合っている。生命樹の傍らで、義父にもらった無条件の命への祝福の心を受け継いでいくことが、義父への返礼だと思っている。