長崎の原爆歌人竹山宏に出会えた「縄葛」第七回大会

 10月26日、「縄葛」第七回大会が大阪上本町のホテル・アウィーナで催された。「縄葛」主宰はかって所属していた「未来短歌会」の近藤芳美選歌の大先輩、間鍋三和子氏。長く大阪市の公立中学に勤務されながら詠まれた歌は歌集「冬の教室」「二月の坂」「風の翳り」などに結晶している。退職後も関西の短歌界で後進を育てられながら、文集「時のかたみ」、歌集「樹下石上」、亡き母上岩本悌子さんとの合同歌集「さるすべり」などを上梓されている。

 

 私はこの会の同人として、詩歌誌「縄葛」に年4回、音楽にのせた詩を投稿し、大会での詩の朗読パフォーマンスの場を戴いている。

 

 今回の大会でも、たくさんの収穫があったので当ブログで紹介させて頂きたい。

 

長崎の原爆歌人 竹山広

 

 本大会で、間鍋先生より竹山広の短歌について初めて学ぶ機会を得た。

 竹山広は1945年、長崎市浦上第一病院で被爆している。原爆詠を初めて発表したのは1964年。第一歌集「とこしえの川」でデビューし、長崎文学賞を得たのはさらに後で1981年だそうだ。この沈黙の期間に竹山広は、自らの被爆体験を無駄のない研ぎ澄まされた31文字に磨き上げた。頂いた資料から、竹山広「とこしえの川」の中で最も強烈に心に残った歌を紹介させて頂きたい。

 

(悶絶の街)

血だるまとなりて縋りつく看護婦を曳きずり走る暗き廊下を

 

傷軽きを頼られてこころ慄ふのみ松山燃ゆ里山燃ゆ浦上天主堂燃ゆ

 

背なか一面皮膚はがれきし少年が失わず履く新しき靴

 

血泡噴きて土に身を捩ぢいたりしが息絶えていまいとけなきほと

 

暗がりに水求めきて生けるともなき肉塊を踏みておどろく

 

まぶた閉ざしやりたる兄をかたはらに兄が残しし粥をすすりき

 

死肉にほふ兄のかたへを立ちくれば生きて苦しむものに朝明く

 

パンツ一枚着しのみの兄よ炎天に火立ちひびきて燃え給ふなり

 

水のへに到り得し手をうち重ねいづれが先に死にし母と子

 

(原爆忌)

うち捨てし少年の眼をその声を忘れむことも願ひつつ来し

 

平和記念像曇天にうち仰ぎ物見の群は満ち足りて去る

 

雷しろく眠りをよぎりゆきたりと慄きに似しめざめをぞする

 

核の傘さしかけくるる忝けなかたじけなとぞ酔ひ果てにける

 

(一年のうちの一日)

くろぐろと水満ち水にうち合へる死者満ちてわがとこしへの川

 

死屍いくつうち起こし見て瓦礫より立つ陽炎に入りてゆきたり

 

人に語ることならねども混葬の火中にひらきゆきしてのひら

 

(念念の生)

死の前の水わが手より飲みしこと飲ませしめしことひとつかがやく

 

 

 夢に脅かされて原爆詠は長く作れなかったという竹山広の短歌は、どれも凄まじい光景を描きながら、歳月が引き締まった韻律を刻み、無駄なことばを削ぎ、にんげんの核心を写しとっている。読みながら何度も落涙した。竹山広の短歌との貴重な出会いをいただいた。

 

 

 このような作品鑑賞の後に、私の詩作品「音の葉」~シェーンベルク<五つのピアノ曲作品23第三曲>にのせて~を朗読するのは、なんとも気がひけてしまった。しかし、チェルノブイリ事故の後も、福島原発事故が起きるまで原発に「NO!」と言えずに生きてきた口惜しさをかみしめながら、遅い目覚めの詩を詠み続けることしかわたしにはできない。

 そしてそんな私の大変僭越な企画ではあるのだが、子どもたちを放射能から守る基金として、朗読CD「たいせつなものへ」に28000円ものカンパを頂き、全額<子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク>代表の佐藤幸子氏に、それまで集ったカンパと共にお渡しすることができた。この場を借りてご報告し御礼申し上げます。