第八回縄葛(つなね)大会が22日上本町のホテル・アウィーナ大阪で行われた。毎年この大会で音楽にのせた詩の朗読をさせて頂いている。仕事をしている時は、ほとんどここだけが、私のパフォーマンスの場であった。音楽と詩のコラボレーションも、スタジオ録音のCD製作のみでは、人と触れあい、反応を肌で感じながら朗読する感覚をつかめていなかったと思う。
主宰の間鍋三和子氏の懐の深さと、同人の皆さんの温かさに支えられて持続する力を頂いてきた。
今年の縄葛大会では、3・11に三宮マルイ前で行った追悼行事「3・11神戸からの祈り」で朗読した詩「祈り」を朗読させていただいた。
この詩は、私が18年前に体験した1・17と向き合うことでようやく3・11の犠牲者に心を向けることができ、かたちを成した詩である。詩の構成は、18年前と3・11後の今とが交錯しながら進んでいくかたちになっている。朗読練習の過程から、声が震え胸が詰まるという他の詩ではあまり起こらない現象がわたしのなかで起きていた。しかし、しだいに割り切るようになったのだ。1・17を体験した者の生身のからだが声を発しているのだから、アナウンサーのようにきれいによどみなく朗読しなくてもいいのではないかと。そう割り切ることで、わたしのからだは随分楽になった。
亡くなった方々の数字は、必死で覚えなくても、なぜか自然に心に刻み込まれた。死者の数を述べるのも、わたしにとっては犠牲者への祈りなのだろう。3・11の死者、15882人。行方不明者は未だ2652人。死者だけのためでなく、死者として葬られることさえされなかった魂のためにも祈る。
1・17で家の下敷きになって命を落とした次男の遊び友達M君を含む、たくさんの犠牲者たちのために祈る。
本当に自分は非力であると思う。<死者と共に在る>心の状態を創りだし祈る。それだけしかできない。
音楽にのせた詩を通じて祈りの声を捧げることは、政治力学的には全く意味のない行為であろう。だからこそ人間がもつもう一つの力、<闇の中だからこそ光に出会うことのできる>人間の力を信じて、詩歌というささやかな営みを続けている。
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